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近畿支部

ストレスと胃腸の病気

三輪洋人(兵庫医科大学内科上部消化管科)


胃の病気には胃潰瘍や胃炎などの良性の病気の他に恐ろしい胃癌や胃悪性リンパ腫などの病気があります(図1).日本人は特に胃が弱く,胃癌が多い民族なので胃の病気に関心を持もっておられる方も多いと思います.そして胃もたれや胃の痛みがあると,胃癌になったのではないかとすぐに心配になる方も少なくないことでしょう.何故,このような胃の病気になるのでしょうか?

約20年前,オーストラリアの学者が胃の中に棲む細菌を発見しました.ヘリコバクター・ピロリという細菌です.元々胃の中は強い酸性なので細菌などのバイ菌は住むことが出来ないと考えられていましたが,胃の表面を覆っている粘液に守られるようにして胃の表面に住んでいることが明らかになったのです.そして最近,これらの胃の病気の多くがこのピロリ菌を原因として生じてくることがわかりました.このオーストラリアの学者,ウォーレン博士とマーシャル博士はこのピロリ菌発見の業績で2005年度ノーベル賞を受賞しました.図2写真左はウォーレン博士が昨年兵庫医科大学を訪れて講演を行っていただいた時のものですが,マーシャル博士とは一昨年の学会の時に一緒に撮ったものです(図2写真右).マーシャル博士は最近,乳飲料のコマーシャルで時々テレビに出られているので顔に見覚えのある方もいらっしゃるかもしれません.

そしてこのピロリ菌は胃の粘膜に慢性の炎症を起こします.これが慢性胃炎なのです.慢性胃炎が進行すると萎縮性胃炎となり,萎縮性胃炎から胃癌が出来やすいことが知られています.また,胃の炎症が続くと胃潰瘍や十二指腸潰瘍になりやすくなります.胃・十二指腸潰瘍のほとんどはこのピロリ菌によるものと考えられています.実際ピロリ菌のいる潰瘍患者ではピロリ菌を駆除することで潰瘍がほとんど再発しなくなるのです.これはこれまで潰瘍に苦しんできた人々にとって朗報でした.この他,急性胃炎,胃ポリープや胃悪性リンパ腫などもピロリ菌と深く関連することが知られています.すなわちピロリ菌は胃に炎症を起こすことによって様々な胃の病気を引き起こしてきたのです.図3はピロリ菌の電子顕微鏡写真です.

しかしながら日本ではヘリコバクター・ピロリ感染率が急速に低下してきています.図4に示すようにわが国のヘリコバクター・ピロリ感染率は減少しており,0~89歳の平均では,1974年に72.7%の人が陽性であったのに,1994年には39.3%となっています.最近では若い人でピロリ菌のいる人はめずらしい程です.これに伴って胃の病気は徐々に減少しています.胃癌は減少していますし,胃潰瘍や十二指腸潰瘍もかなり少なくなってきた印象があります.高齢者社会の到来に伴い,肺癌や大腸癌など胃以外の部位の癌は増加していますが,奇跡的に胃癌の減少しつつある一因にはこのピロリ菌の減少もあるものと考えられます.ちなみに,ここでの胃の病気とは癌や潰瘍,ポリープなどの目で見てわかる病気を指しています.いわゆる器質的疾患と呼ばれる形のある病気なのです.一方,器質的疾患が減少しているにもかかわらず, 「胃のもたれ・胸やけ」「腹痛・胃痛」「食欲不振」などの胃の症状に悩まされる人は減少していません.厚生労働省国民生活基礎調査の健康票からの推計では,胃の症状はこの20年間変化していないことがよくわかります.すなわち,依然として多くの人が胃の症状に悩まされているのです.
約10年前世界各国で横断的に行われた調査では,日本人成人の26%が過去3ヶ月以内にこの上腹部症状を経験し,9%の人は日常的に上腹部症状で悩んでいることが判明しています.多くの人が胃の痛み,胸やけ,胃のもたれなどの上腹部症状で悩んでいるのです.そして,実際に多くの患者さんがこの上腹部症状を主訴として医療機関を受診しています.しかし,このような症状を訴えて医療機関を受診しても必ずしもなんらかの異常がみつかるとは限りません.むしろカメラや超音波検査で異常のない人が多いのです.2006年に日本国際消化管運動研究会が行った調査の結果では,胃の不調を訴え実地医家を訪れた約9割の患者さんは胃カメラで調べても潰瘍や癌,食道炎などの症状の原因と考えられる器質的な病気が見られませんでした.

なぜ,器質的な病気がないのに症状が出るのでしょうか?しかし,症状が出てるからにはなんらかの原因があるはずです.目に見えない異常がその原因ではないか?たしかに潰瘍や癌などの器質的疾患は胃カメラや超音波検査でわかるが,胃の働きや機能はこのような検査では明らかにならないはずだ.このような機能が傷害されて症状が出ているのではないか,との考えからこのような疾患を機能性ディスペプシア(ディスペプシアとは上腹部の症状をあらわす英医学用語です)あるいは機能性胃腸症と呼ぶようになりました.この機能性ディスペプシアという言葉はあまり聞き慣れませんが,これまでいわゆる「慢性胃炎」「神経性胃炎」などとよばれてきたような病気がこれにあたります(図5).

この機能性ディスペプシアは主として胃や食道,すなわち上腹部の症状を訴える患者さんに対する診断名ですが,腸の機能性疾患の代表は過敏性腸症候群と呼ばれています.この疾患は大腸に癌やポリープなどの器質的疾患がないのにもかかわらず腹痛や排便異常を訴える疾患です.おなかの痛み(腹痛)があって,それが排便によって軽快する(楽になる)という症状が典型的なものです.いつも便秘するという「便秘型」,下痢と主体とする「下痢型」,両者が交替に生じる「交替型」の三つの型があります.日本でも多くの患者さんがこの過敏性腸症候群で悩んでおられます.このスライドに過敏性腸症候群の診断のアウトラインが示されていますので,ご参考になさってください(図6).

それではこの機能性ディスペプシアや過敏性腸症候群などの機能性消化管疾患は具体的にはどのような機能的異常によって起こるのでしょうか?これが結構,難題です.すなわち,一つの原因では説明できない複雑な病態であると考えられています.専門家の間では具体的には,胃酸過多,胃運動異常,感じすぎ(知覚過敏),ストレス(精神心理的異常)等がその原因として有力視されています.実際,胃が痛かったり,胃がもたれる機能性ディスペプシア患者さんに対しては胃酸過多を想定して胃酸を強力に抑制するプロトンポンプ阻害剤(PPI)やヒスタミンH2受容体拮抗薬(H2ブロッカー)などが投与されるたり,また胃運動機能低下を想定して胃の運動を改善する薬(消化管運動機能改善薬)などが日常的に処方されています.
しかしながら,これらの胃に対する薬剤の効果は思ったほど高くはありません.図7はプロトンポンプ阻害剤を内服したとき胃の調子がよくなった人の割合を示したものです.偽薬に比してプロトンポンプ阻害剤少量を内服した場合の方が,また通常量のプロトンポンプ阻害剤を内服した場合の方が十分に症状が改善した人の割合は多くなっています.統計学的に有意な変化なので,この効果は科学的に確かであろうと考えられます.しかし,プロトンポンプ阻害剤の通常量を内服した人でも6割超しか効果がないのに,偽薬でも5割以上の人に改善効果が見られます.プロトンポンプ阻害剤はディスペプシア治療に最も効果的である薬剤の一つと考えられていますが,それでも偽薬に比して僅かな上乗せ効果しかないことがよくわかります.これはプロトンポンプ阻害剤の効果が少ないと言っているものではありません.よく効くプロトンポンプ阻害剤でもこの程度だ,すなわち機能性ディスペプシアに対する薬物治療にはそれほど期待できないかもしれないということを認識していただきたいと思います.

これとは別にストレスは胃の症状に強く影響することが知られています.経験的にストレスを受けると胃が痛くなることを感じている人も少なくないと思われます.このように,ストレスは胃の症状を起こしますが,これはストレスが胃腸の機能に影響するからでもあります.強いストレスを受けると胃の運動が止まったり,腸の蠕動が亢進したりするのですが,過度の緊張で嘔吐したりするのはこのためと考えられています.また慢性的なストレスも胃腸の機能に影響する可能性があります.科学的にはストレスによって脳内にCRH(コルチコトロピン・リリーシング・ホルモン)というホルモンが分泌され,これが直接的に,あるいは間接的に胃腸の機能に変化を及ぼすことが知られています.CRHにより,胃酸分泌,消化管運動などが変化したり消化管の知覚が過敏になったりすることが明らかとなっています.最近の調査では, 社会人の約7割がストレスに悩まされていることがわかっています.胃の調子の悪い人が多いのはこのためかもしれません.(図8

ここで胃の知覚過敏という概念があります.最近特に注目されている概念です.われわれは個人で痛みの感じ方に大きな差がありますが,たとえばチューブに連結した風船を胃の中でふくらますと人によって痛みの感じ方が異なることがよくわかります.風船が大きくふくらんでも痛みを感じない人もあるし,あまり風船がふくらんでいなくとも痛いと感じる人もいるのです.図9に示すように,仮に風船に500ccの空気を入れると,通常の人だと約2割の人が痛みを訴えるのに対して,いつも胃の調子が悪い機能性ディスペプシア患者の66%で痛みを感じるとのデータがあります.このように胃の刺激に対しても人によって痛みのとらえ方や感じ方は様々なのです.
胃での出来事は神経によって脳へと伝わり,脳で感じるのです.しかしながら,われわれ消化器を専門とする研究者はこれまでたとえば胃酸や胃の運動異常など胃の出来事ばかり注目してきた経緯があります.胃腸の症状は胃腸のことばかり調べてもだめかもしれない,神経の伝わり方や脳にも原因があるのではないか,との反省からやっとこの機能性疾患の研究へと目が向けられようになったのです.日本でもこの動きが活発化し,神経消化器病が始まりました.しかしながら,痛みの科学が本格的に始まったのはごく最近のことです.1997年に米国の科学者が痛みを認識する受容体を発見したのがきっかけですが,痛みに関する研究はそれ以来,主として整形外科領域や麻酔科領域で行われてきました.これまで,内臓の痛みなどの症状に関する科学的アプローチはほとんどありませんでした.やっと最近我が国でもこのような研究が始まってきたように思います.現在は症状に対する科学的アプローチの黎明期なのです.

とはいえ,実際に機能性ディスペプシアの患者さんは数多くおられます.これらの患者さんは実際にどのようにすればいいのでしょうか?科学的アプローチが実って症状発現のメカニズムが明らかになるまでじっと待っていなければならないのでしょうか?これら患者さんにとっての朗報は,この機能性ディスペプシアという疾患の長期予後はいい,すなわち,これら患者さんの寿命は長い,つまり命に関わる病気ではないということです.どんな薬物治療でもそれほど劇的な効果は期待できませんが,とりあえずは対症的にさまざまな治療法を試していただき,自分にあった方法を見つけていただければと思います.具体的には図10に示しましたように,自分で可能な限りストレスを避けたりそれを昇華させる方法を探したり,食事・運動・生活習慣を見直して自分に最もあった方法を見つける,信頼できる専門医を捜して色々と相談をすることなどが勧められます.また,民間療法にも積極的に取り組むのも一法ではないかと思います.一般的に民間療法の効果の有無に関しては科学的な裏付けが不足していることが多く,このため医師によってその評価がまちまちです.というより,科学的評価がされていないので,統一した意見が生まれる余地はありません.これは科学的な検証は薬剤や治療法の効果を調べる臨床試験は長い時間と莫大な費用,多くの労力が必要であるためなかなか行われることがないからです.しかしながら,臨床試験によって検証されていないから効果がないと決めつけるのは早計かもしれません.自分にあった治療法や食餌療法があるかもしれません.実際に米国ではこの民間療法が最近見直され,これに対して多くの研究予算が投じられているとのことです.皆さん,副作用にだけは十分に気をつけて,自分なりに積極的にディスペプシア症状に対処していただきたいと思います.

 

図  表 

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図1

図2

図3

図4

図5

図6

図7

図8

図9

図10