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健康情報誌「消化器のひろば」No.13

健康情報誌「消化器のひろば」No.13

 ずばり対談 ゲスト・音楽家・総合エンターテインメントプロデューサー・TNX株式会社代表取締役 河野/近畿大学学長・医学者(消化器外科学) 川崎 均

本号「ずばり対談」のゲストは河野洋平氏(元衆議院議長)。本日で81歳164日、最高齢の賓客である。河野氏は16年前に長男・太郎氏(現外務大臣)の肝臓を譲り受ける「生体肝移植」により、「死」から「生」への大転換を遂げ、話題を呼んだ人である。今日は、レシピエント(臓器受領者)の患者体験を闊達にご披露いただいた。肝臓移植を検討中の方、あるいは重度の肝臓病で苦しんでいる方などには、有力な情報になるだろう。お相手は世界的な肝臓移植医・川崎誠治先生。河野氏の執刀医・主治医でもある。

(2018年6月28日収録)

活気あふれる日々

川崎
まず今の健康状態をお聞かせください。

河野
何も心配することはなく、とても良い状態で仕事をしています。朝、小田原(神奈川県)の自宅を車で出て、10時半頃に虎ノ門(港区)の事務所に入ります。来客の相談にのったり、インタビューを受けたりといったことで、1日に2 ~ 3件はこなしています。週に5日皆勤することも少なくありません。

川崎
診療は今も、鈴木聡子先生(現東部地域病院消化器内科部長)が担当されていますね。

河野
肝臓移植の前から順天堂医院でお世話になってきました。最近、毎月の受診が2 ヵ月に1回になりました。体重70㎏を少し減量するよう指示されていますが、これ以上減らすのは難しいですよ(笑)。

川崎
C 型肝炎ウイルスのないお体になられ、理想的な健康状態を維持されています。ところでアジア諸国へよくお出かけと伺っています。

河野
中国へ年3 ~ 4回、韓国へ1回くらい行きます。アジア外交についての発言を求められる機会が増えていますが、81歳の年齢相応に対応しています。また今も年に何回か依頼のある肝臓移植の講演では、社会的な使命感から進んでお話ししています。

川崎
本当にお元気です。率直に申し上げますと、医師からみて移植後の16年間は良い患者さんですが、移植前にC 型肝炎をお持ちだった30年間はご自身の体を省みないという意味で悪い患者さんの代表例です。疲労感が出始めたのが、確か1970年代の初めの頃でしたか。

河野
30歳(1967年)で政界入りして6年後の73年のことです、そこで、子供たちのかかりつけ医で私の主治医でもある先生に診察を受けました。血液検査の結果はGOT80、GPT215と高く、「何かの間違いではないか」と再検査を行うような有様でした。診断は「脂肪肝ではないか」ということでした。翌年にはGOT もともに3桁に跳ね上がり、入院を勧められました。

川崎
C 型肝炎ウイルスが発見される16年も前のことで、当時、病気の原因・本態などはよくわかっていませんでしたが、病状の進行を食いとめるには安静と禁酒が重要視されていました。

河野
ロッキード事件を機に39歳(1976年)で自民党を離党し、新自由クラブを結成し党首に就任しました。権力との闘いの日々が続き、とても入院できる状況にはありませんでした。77年には参議院議員選挙があり、仲間のために“残酷区”といわれた全国の選挙区を飛び回りました。その後も肝臓に悪いことを続けてきましたが、血液検査で異常を指摘されてからは禁酒だけは厳守し、乾杯で一口飲む程度です。

川崎
それが良かったと思います。飲酒を普通に続けられていたら、もっと早く肝臓は深刻な状態になっていたと思います。

河野
49歳(1986年)で自民党に復党しました。新自由クラブ時代の10年間で病状は次第に進み、復党直前は最悪の状態でした。

川崎
経歴を拝見しますと、復党後も華々しく活躍されたように見えます(5頁、プロフィール「河野洋平」参照)。

河野
病気を隠して内閣官房長官や外務大臣を務めました。黄疸、疲労感などの症状が増えていき、短期入院を繰り返しました。当時、C 型肝炎はC 型肝炎ウイルスの感染で起こることがわかり、症状が出てから20年近くたって、当時の主治医から「C 型慢性肝炎」の病名を告げられ、C型肝炎はC型慢性肝炎、C型肝硬変へ進み、肝細胞がんに至る可能性が高いことを知らされました。しかしC型肝炎の感染経路は不明のままです。

川崎
何か治療は受けられましたか。

河野
当時受けたインターフェロン療法ではC 型肝炎ウイルスの排除はできませんでした。その後、肝保護薬の強力ミノファーゲンC の注射療法を受けました。しかし、肝性脳症、食道静脈瘤など重篤な合併症が起こり、「死」を意識し、ときに覚悟するようになりました。ストイックでやせ我慢の性格が病気を取り返しのつかないところへ追い込みました。

「死」から「生」への大転換

川崎
ここからは生体肝移植手術を中心にお伺いします。ご家族の固い絆のもとに移植手術が進められたとの印象があります。

河野
3人いる子供たちは私の病状の悪化を懸念し、ひそかに情報を集め肝臓移植がベストの選択と判断したようです。移植計画は、長男・太郎が肝臓の提供を決意したことまで進んでいました。2002年2月の夜、長女が病室に来て、私に移植手術を勧めました。彼女は通院の都合で転院していた順天堂医院の佐藤信紘先生(当時、消化器内科教授)に相談し、自分の肝臓の提供についても尋ねたところ、「女性の肝臓は小さいから移植には不向き」と告げられたそうです。それを聞いて私はほっとしました。嫁入り前の娘が病気でもないのにお腹にメスを入れるのは許されません。

川崎
順天堂医院のご紹介により、私の所属する信州大学病院第一外科が移植手術をお引き受けすることになりました。移植をめぐり、ご家族でかなりの議論があったと伺っています。

河野
当時65歳の私は、父・一郎(政治家、67歳で死去)と同じ年齢まで生きられれば本望と考えていました。子供たちは母親を早く亡くしたこともあって、私がもう少し生きることを望んでいました。太郎は「肝臓をやると言ってるんだから、ごちゃごちゃ言わずにもらってくれよ」と言い、私は「オレは寿命にしたがうよ」と言いました。太郎の「お母さんを助けることができなかった悔しさが臓器提供の原点」との一言で、移植を受け入れる気になりました。妻は1995年に子宮頸がんで亡くなっています。

川崎
太郎さんの言葉が躊躇されるお父様の背中を押した、ということですね。

河野
2002年3月11日の夜、橋倉泰彦先生(当時、信州大学病院第一外科)から順天堂医院の一室で、太郎をはじめ、家族、担当医、事務所スタッフが説明を受けました。先生は私の病状がC 型肝硬変で、遠からず肝細胞がんを併発する可能性が高く、肝臓移植が適切であると話されました。私たちの疑問に懇切丁寧に答えてくださり、「この手術には社会的意義があります」と結ばれました。ここで私は命を川崎先生のメスに託すことを決断しました。手術の前には太郎の妻の妊娠、次男の結婚式と慶事が続きました。

川崎
移植手術は2002年4月16日から翌未明にかけて、時間はかかりましたが順調に行われました。その後を駆け足で(笑)ご紹介ください。

河野
手術時の麻酔注射の、ちくっとした痛みの後は現在まで痛みは全くなく、快適な日々を送っています。正確には手術後1年で血液検査の成績が正常になり、免疫抑制薬などの薬は次第に減ってきて、気力・体力は順調に回復してきました。その頃日本消化器病学会の市民公開講座で、私が『肝移植を受けて』、太郎が『肝臓を提供して』の表題で講演をしました。自分の声に張りが戻っていることに驚きました。

川崎
肝臓移植では移植肝の生着のために免疫抑制薬を使用します。そのため発生しやすくなる感染症の予防に、手術後半年間は厳格な生活を強いられたと思います。

河野
人混みに出ない、刺身などナマ物を食べないといったことですね。しかし移植手術前の状態に比べると楽なものでしたよ。自分の「死から生への逆転人生」を振り返るとき、何台もの「終電車に間に合った」という感懐を抱きます。

川崎
大変なご病状の中でもタイミング的には運が良かったということですね。

河野
高齢でも移植手術をしていただき、治療法の進歩で食道静脈瘤からの出血は一度もなく、肝性脳症も薬で治り、移植後に投与した抗ウイルス薬は一発でウイルスを排除させました。世界的に著名な川崎先生に出会えたこと、臓器提供者の太郎が若くて、スーパー肝臓といわれる大きな肝臓の持ち主であったことも幸いでした。

川崎
移植に携わった医師として、健康で若々しい患者さんに接するのはとても幸せです。河野先生のお姿は日本の肝臓移植の大きな推進役を果たしています。ますますのご健勝をお祈りいたします。本日は、ありがとうございました。

構成・高山美治

成人生体肝移植

臓器移植とは「機能しなくなった臓器に(生命維持を目的に)他人の臓器を移植する医療」(広辞苑)である。移植には生体臓器移植と死体(脳死と心臓死)臓器移植があり、腎、肝、心、肺などの臓器と皮膚、血管などの組織の移植が行われている。今回の対談の主題は成人の間で行われる「成人生体肝移植」。

 

成人生体肝移植の歴史と現状
1989年、島根医科大学病院(現在・島根大学医学部)で日本初の生体肝移植が行われた。父親の肝臓を我が子に移植する「小児生体肝移植」だった。その後、1993年に信州大学の外科グループが世界で初となる成人間の生体肝移植(原発性胆汁性肝硬変)に成功した。2016年末までの肝移植総数は8825例で、8447例(96%)が生体肝移植(うち成人生体肝移植5298例)で、残り378例は死体肝移植である。

 

生体肝移植におけるレシピ工ントとドナーの適応
レシピエントの条件(疾患)は劇症肝炎、肝硬変、ある種の代謝性肝疾患などである。劇症肝炎では緊急的に移植を行う必要がある。一方、C型肝硬変などの肝硬変では、病状が一定以上に進行していることが移植の条件とされている。ドナーの条件は1.自発的な臓器提供の意思があり報酬を目的としない。2.親族に限定(6親等内の血族など)。3.年齢は原則20歳以上で、上限は一般に60歳~65歳。4.血液型は不適合も可。5.肝障害・ウイルス肝炎などの患者は不可。6.肝臓のサイズなどが適正。日本で最高齢のレシピエントは76歳である。

 

C型肝炎に対する生体肝移植の治療
日本における生体肝移植によるC型肝炎の治療成績は、高い外科手技が基礎になり世界のトップレベルにある。インターフェロン療法により、移植後のC型肝硬変患者の5年生存率72%、10年生存率63%。さらに2014年の新しい抗ウイルス薬の登場により、C型肝硬変患者の移植後の生存率はより向上するものと期待されている。

 

成人生体肝移植の明日
1C型肝炎患者に移植された移植肝は移植後ほぼ100%C型肝炎に感染する。放置すれば肝炎は比較的早期に肝硬変へと進行する。現在、その対策にはインターフェロン療法に代わって直接作用型抗ウイルス薬治療が行われている。治療効果に優れ有害事象の少ない薬剤であり、多くの保険認可薬を併用するなどの工夫により、移植後のC型肝炎ウイルスの排除率はほぼ100%に達している。直近の話題は2017年秋に保険収載された新規経口2剤の配合剤で、移植前のC型肝炎の初回治療例・既治療例でC型肝炎ウイルスの排除率は「ほぼ100%」(日本肝臓学会)である。今後の検討を経て直接作用型抗ウイルス薬の実像はさらに明らかになるだろう。

(川崎誠治)

 

プロフィール

河野 洋平(こうの ようへい)

河野 洋平(こうの ようへい)
1937年、神奈川県平塚市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、丸紅飯田に勤務。1967年、衆議院選挙に父・一郎氏の地盤を継承し、自民党公認で初出馬してトップ当選。1972年、文部政務次官(田中角栄内閣)。「自民党のプリンス」と呼ばれる。勉強会「政治工学研究所」を主宰。1976年、新自由クラブ結成・党首。同年、総選挙で5議席から17議席に飛躍。1977年、参議院議員選挙で“残酷区”を遊説。1983年、自民党との連立政権に参加。1985年、科学技術庁長官として初入閣(中曽根康弘内閣)。1986年、新自由クラブを解党し自民党に復党。1992年、内閣官房長官(宮澤喜一内閣)。1993年、自民党総裁。1994年、副総理・外務大臣(村山富市内閣)。1999年、外務大臣(小渕恵三内閣)。2000年、外務大臣(森喜朗内閣)。2003年、衆議院議長。2009年までの在任期間は日本憲政史上最長。太郎議員とともに臓器移植の推進・発展を目指して臓器移植法の改正に取り組む。2009年、政界を引退。

川崎 誠治(かわさき せいじ)

川崎 誠治(かわさき せいじ)
1952年、東京都生まれ。1977年、東京大学医学部卒。同大医学部第二外科に入局、同大附属病院、癌研究会附属病院などに勤務。米・エモリー大学外科クリニカルフェローを経て、1991年、信州大学第一外科助教授、1995年、同大教授就任。在任中の1999年に日本初例となる脳死肝移植を執刀。2002年、順天堂大学肝胆膵外科主任教授。2018年6月、社会福祉法人三井記念病院院長。日本消化器外科学会理事、日本消化器病学会理事、同学会大会会長等を歴任、日本外科学会特別会員。

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