一般のみなさまへ

健康情報誌「消化器のひろば」No.23-2

 ずばり対談 ヒトと腸内細菌の可能性元プロマラソンランナー 有森裕子/医療フロンティア展開学 准教授 髙木智久

近年、「腸活」という言葉も登場するほど、腸内細菌が注目されています。その背景として、遺伝子解析技術が飛躍的に進化し、腸内細菌の種類やバランスなどの解明が急速に進んだことが挙げられます。最近の研究では、腸内細菌は腸の中で働くだけでなく、メンタル面や全身の健康にも関わることがわかってきました。今回の聞き手・髙木智久先生はアスリートの腸内細菌を解析し、競技力を高める方法を見出すべく研究を続けています。バルセロナ五輪とアトランタ五輪の女子マラソンメダリストである有森裕子さんの比類なき競技力を支えたものは何か。「腸内細菌」をキーワードに髙木先生が迫ります。

(2023年4月18日収録)

アスリートの腸内環境を調べてみると

髙木
私は潰瘍性大腸炎やクローン病など下部消化管の小腸、大腸の病気を専門に患者さんの治療や研究を行っています。この潰瘍性大腸炎やクローン病などのように、原因がわからない、治療法もない難病は少なくありませんが、近年ではそういった病気に腸内細菌が関係していると考えられています。実際に腸内細菌の研究を始めたところ、腸内細菌のバランスの取れた腸内環境を形作るのには食事が大切であることがわかってきました。アスリートは過酷なトレーニングで消費エネルギーが多い反面、摂取カロリーが極端に多いことが少なくありません。そこで、スポーツ選手の腸内細菌はどうなっているのか解析したところ、陸上競技の女性長距離ランナーの腸内環境はあまり良い状態ではないことがわかったのです。長距離ランナーの運動量は極めて多く、普段の練習で1カ月に500 ~ 600kmは平気で走るほど過酷なトレーニングをされているので、身体に対する負荷の大きさが影響しているのかもしれません。

有森
そうですね。私たちは1カ月に1,000kmぐらいは走っていましたから。

髙木
最近はアスリートに注目する研究者が増えて、腸内細菌が競技力にも大きく関わっていることがわかってきました。将来的には腸内環境バランスをどう整えていくかということも、アスリートの栄養管理の一つに加わっていくかもしれないと考えています。

監督の手作り料理で栄養管理

有森
私の現役時代には「腸内環境」という言葉はありませんでした。カロリーや栄養管理ということが言われ始めたのも、1992年にバルセロナ五輪に行く少し前くらいからです。当時は海外での合宿でも監督が自ら料理を作ってくれていて、毎日、朝からもつ煮やニンニク、ショウガ味の強いメニューを出され、「勘弁してよ」と思いながら食べていました(笑)。栄養ということでは動物性と植物性のたんぱく質を分けて納豆か卵かを入れるなど、シンプルなわかりやすい食べ物をようやく取り入れるようになりました。長距離のチームに栄養管理の専門家が加わるようになったのはアトランタ五輪(1996年)の後でした。腸内環境が言われ始めたのは、私が現役を引退してからでしたね。

髙木
実は最近、長距離ランナーの腸内には有益な細菌がいることが報告されています。この腸内細菌が作り出す「短鎖脂肪酸」は肝臓で糖、つまりエネルギーを作り出す働きがあります。つまり、ランナーが試合中にエネルギーを消費して飢餓状態になっても、腸の中から身体にエネルギーを供給するシステムがあるのです。一方、私たちが行った動物実験では、日常的に運動量が多いマウスの糞便を運動しないマウスに移植すると、移植されたマウスの骨格筋は運動量の多いマウス並みに発達します。骨格筋の形成や持久力も腸内細菌が関係していることがわかってきています。近年は選手の栄養管理が日常的に行われるようになって腸内細菌がうまく育まれ、競技力が上がっている―― 有森さんたちが実体験として感じていることに、科学が少しずつ追いついていっているという状況です。

有森
すごい! もっと早く知りたかったです。いま私は大学スポーツ協会(UNIVAS)副会長として若いアスリートと接しているので、学生たちが腸内環境の知識を持って実業団ほか、社会に出てくれると良いと思いました。私の母は大学の学食に調理師として勤めていたので、季節ごとにおいしい食材、栄養や組み合わせなどを教えてくれて、下宿生活が始まってからは自分でも母の教えを守ってきました。小さい頃は好き嫌いが多かったのですが、母が調理法を工夫して食べさせてくれたおかげか、ひどかったアトピー性皮膚炎も治りました。また長距離ランナーには骨粗しょう症の人が多いのですが、私は選手の中でも骨密度は高いほうでした。知らず知らずのうちに母に身体の基礎を整えてもらっていたのだと思います。季節の食べ物を旬の時期に食べれば、普段よりも高い栄養価が得られます。若いアスリートたちにもサプリメントや加工食品に過剰に頼るのではなく、季節ごとの食べ物の栄養についてきちんと知ること、その栄養をしっかり身体に取り込んで免疫力を整えることを勧めたいです。

増えている「過敏性腸症候群」

髙木
ところで、脳と腸は神経で細やかにつながっており、ストレスやプレッシャーを感じるとおなかにシグナルがいくようになっています。たとえば小さな子供が発表会の前に緊張でおなかがギューッと痛くなるのは、この「脳腸相関」のしくみによるものです。近年、痛みを伴う下痢や便秘を繰り返す「過敏性腸症候群」の患者さんが増え続けているのですが、これは脳腸相関の代表選手です。ストレスを感じたときに脳内ホルモンが適切にストレスに対処すれば何事もないのですが、度を超すと過剰な反応を起こして腸をはじめ、メンタル面や脈拍など心身への様々な影響が現れると考えられています。有森さんは試合のストレスはいかがでしたか。

有森
私はむしろ、試合よりも練習のほうが緊張していました。試合が決まると3カ月前から脚作りに入り、練習メニューが組まれます。今日、この練習ができなければ明日の練習につながらない。とにかく毎日が全力投球で、朝起きたら朝練、調整して午後練、調整して寝て、ごはんを食べて、次の朝練。これが延々と続く3カ月の間、流れを崩さないようにしなければ練習内容が本番の役に立たないという緊張が絶えずありました。試合の日は沿道に応援してくれる人たちもいますし、精神的には一番楽なのです。おなかの調子ということでは、長距離の練習では長時間トイレに行けないので、緊張やメンタルへのストレスからおなかを下したこともあります。しかし、練習中に一度コースを抜ける経験をすると身体が覚えるようで、本番では解消していくことが多いです。

「自分をもっと褒めなさい」

髙木
ストレスと言えば、バルセロナ五輪で銀メダルを獲られてから2回目のアトランタ五輪の銅メダルに至るまでの間はプレッシャーも大きかったのではないかと思います。アトランタ五輪で言われた「自分で自分を褒めたい」という言葉は、その間の思いから出てきたのでしょうか。

有森
実はあのコメントにはヒントになったエピソードがあり、話は高校時代に遡ります。京都で行われた全国都道府県対抗女子駅伝の開会式でフォークシンガーの高石ともやさんが歌い、選手たちにメッセージをくださったのです。「ここに来るまで苦労して頑張ってきたことをあなたたち自身は全部わかっている。だから誰かに褒めてもらうのを待つより、もっと自分を褒めなさい」と。高校1年から3年までずっと補欠だった私は「そう、私、頑張ってきたんだよ」という思いで大泣きしながらも「これで満足していたら強くなれない、自分を褒めるのは自分が本当に強くなるまで封印しよう」と思いました。その後、バルセロナ五輪からの3年間は両足の手術も経験し、自分でもまさか五輪に戻れるとも思っていなかったですし、走り続けてきた自分の人生に疑問を感じたこともありました。そんな自分の人生を前に進めるためにはもう一度メダリストにならない限り、誰も私の声に耳を傾けてくれないのではと思いました。アトランタでは自分に負荷をかけ、誰も望んでいなくてもいい、自分自身のためにと望みをかけて全力で突っ走りました。その過程を振り返って最後に出てきた言葉でした。

人間の可能性を信じる

髙木
有森さんは講演や著書でよく「あきらめない」ということを発信されていますね。ご自身は中学~高校時代からトップアスリートとして全国的に名を馳せていたわけではなく、先ほどのお話のようにインターハイや国体の本選にも出場されていません。それでもあきらめずに日々すべき準備を積み重ねるというのは、なかなか真似できないことです。

有森
「なぜあきらめなかったの?」とよく聞かれます。それには「あきらめる理由がなかったから」と返すしかありません。あきらめるのは、今までできていたことができなくなったとか、自分の基準に満たないからでしょう。私には良い意味でそれがないのです。良いときがなかったから、とにかく必死でやってチャンスをつかみ、積み重ねていくしかなかった。「喜びを力に」という言葉を使ったこともありますが、高みを目指す道のりに喜びはそれほどなく、嫌なことも多いものです。そんなときも生きていかなくてはいけないし、生きていけるのですよね。人が根底に持っている力というのは、そんなに物事をすぐあきらめられるような脆いものではないと思っています。私自身もまだまだやり尽くしてはいないし、もっといろいろなものを力に変えてできることがある。もしかしたら、私は人間の可能性を信じる気持ちが、ほかの人よりも強いのかもしれません。

髙木
私たち医師は「患者さんを救う」ということにおいてはあきらめないのですが、仕事の両輪として日々取り組んでいる医学研究についても、しんどいけれどあきらめる理由はない、継続することが大切なのだと、今日のお話を聞いて深く感銘を受けました。現在、有森さんは多くの要職に就かれ、後進の指導や国際的な社会貢献活動にもお忙しいと伺っています。腸内環境についての研究がもう少し進めば、有森さんの活動にも取り入れていただけると思います。本日はどうもありがとうございました。

構成・中保裕子

プロフィール

有森 裕子(ありもり ゆうこ)

有森 裕子(ありもり ゆうこ)
1966年生まれ、岡山県出身。就実高等学校、日本体育大学を卒業後、株式会社リクルート入社。1992年バルセロナ五輪、1996年アトランタ五輪の女子マラソンではそれぞれ銀メダル、銅メダルを獲得。2007年2月18日、日本初の大規模市民マラソン「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。1998年 NPO法人「ハート・オブ・ゴールド」を設立、代表理事就任。その後、国際オリンピック委員会(IOC)Olympism365委員会委員、日本陸上競技連盟副会長、大学スポーツ協会(UNIVAS)副会長を務めている。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞。

髙木 智久(たかぎ ともひさ)

髙木 智久(たかぎ ともひさ)
1968年生まれ、香川県出身。1994年に京都府立医科大学を卒業。京都武田病院消化器内科部長、京都府立医科大学 生体安全医学講座講師、丹後広域振興局保健福祉部長・丹後保健所所長などを経て、現在は京都府立医科大学消化器内科准教授、同大医療フロンティア展開学准教授、同大附属病院臨床研究推進機構臨床研究推進センター研究マネジメント部門部門長を併任。専門は消化器病学、消化器内視鏡学、消化管炎症学(炎症性腸疾患)など。

Share on  Facebook   Xエックス   LINE